2015年5月21日木曜日

古い手紙

facebookで過去の投稿を見ていたらこんな文章が出てきました。
およそ4年前。
起業間もないころ、インターン志望の学生に送った文章です。

今見てもつたない文章ですが、すべてはこの一通の手紙から始まりました。
この手紙をみて手を挙げてうちに来てくれた学生が当初、三人。そのうちの一人は
後に弊社の新卒社員となりました。そこからの口コミで働いてくれる仲間も増え、
この4年で社員は20人を超えるまでになりました。
そのうち、半数は僕が社会人になった頃の平成元年、二年の生まれです。

これも何かの縁でしょうか。
さて、また始めていきますかね。




こんにちは
スマートソーシャル株式会社、社長の酒井と申します。

突然ですが、日本の競争力回復につながるお仕事をできる方を探しています

私の会社はスマートフォン、ソーシャルネットワークに特化したエンジニアの紹介とスマートフォン、ソーシャルアプリのマーケティングコンサルを行っています。

私はリクルートでITとマーケティイングをミックスした事業部に在籍後、オリコンで人材事業を立ち上げ、サイバードでBtoBのモバイルマーケティングを行っていました。その経験からスマートフォン、ソーシャルグラフという新しいコミュニケーション手段が日本の国際競争力の向上のために必ずや役に立つと信じ、起業いたしました

奇しくも、創業のタイミングで国難ともいえる日本の状況に面し、今ますますその思いを強くしています。

140年前、日本は競争力の高かった絹織物で海外に乗り出し外貨を獲得しました。その資金で大学を作り、人を育て世界と渡り合いました。また敗戦で傷んだ65年前には、自動車と電化製品を輸出することで復興を果たしました。

これからは日本発で作られるスマホ向けアプリやソーシャルアプリが世界で販売され外貨を稼ぐ時代が目の前に迫ってきています。
この国を導くものはいつの時代も最新の技術力なのです。

このような状況の中、エンジニアが必要なのですが大手企業は集めるのに非常に苦労をしています。逆にエンジニアの方々は直接大手からダイレクトに募集が入らない構造があり、大いにミスマッチが発生しています。

我々はいち早くこの状況に着目し、エンジニアにダイレクトにコンタクトをとる手法を編み出しました。

皆さんにお願いしたいのは、この短期間の間に我々と一緒に大手企業のTOPにお会いし、直接、社会のニーズを伺い、また同時にエンジニアの方に直接伝えるというビジネスを一緒にやっていただきたいということです。

皆さんにとって必ず刺激的で将来にわたって記憶の残る経験ができるものと確信しております!
お会いした際にはさらに詳しいスキームを「直接」ご説明いたします。
皆さんの応募心からお待ちしております


スマートソーシャル株式会社
代表取締役 CEO 酒井禎雄

2015年4月17日金曜日

ホットペッパーを作った人たち

ホットペッパー立ち上げに参加された方からいい話を聞いたので
シェアさせいただきます。
僕は生まれ育った新潟に20年ほどいてそれ以降もっとながく、東京、
大阪、などの大都市圏で働いています。そこで手にする情報はそれこそ
洪水のようにあり、伝え聞いた情報を頭ごなしに信じてしまいがち。
自ら足を運んで、自ら見て、自ら感じ、自らの言葉で伝えていく。
そんなことを思い出しました。


ホットペッパーの準備室で微力ながら立ち上げに関わっていたので、確かに当時のRはこの事業をやるのかどうか揺れていたところはあったと思います。360が赤字だったころ、続けるのか辞めるのかRが悩んでいたころですね。

しかし、各地の現地の多くの女性に直接会い、儲かっている版元長に丹念に話を聞き、360のメディアの再設計をして「これはRとして大義がある」「かつもうかる事業だ」と準備室の多くのメンバーが思えたことが、あの事業がGOに至ったところだと思います。

経営が定義しなくても、現場が市場に直接足を運んで、「これも情報が人を熱くする、という立派なRの事業だ」と定義できる強さが、当時のRの現場にはあったと思います。

実際、私も札幌、仙台、新潟、長岡、横浜、長崎と色んな都市の女性のインタビューを行いましたが、彼女たちにとっては、短い独身時代や、子どもがいない時代が、短い「ハレ」なんですよね。

事務職やサービス職で、手取り14万円とかで。家に5万入れて、貯金して、交通手段も車しかないから、ガソリン代も払うと、手元に残るのはわずかしかない。
その中でやりくりして、呑みに行ったり、美容室に行ったり。
「美容室にあと1回行けたらいいな」
「友達の呑みの誘いを断らずにもう1回行けたらいいな」
そんな彼女たちにとって、ホットペッパーはバラ色のメディア。

プロトタイプの見本誌を見せたら「これ絶対欲しいです!」「いつ出るんですか」「これがあったら地元の生活も楽しくなります」
そういう熱い地方の女性の声が、今でも忘れられません。

2015年3月31日火曜日

リクルート入社して26年目の気づき

先日、リクルート時代の先輩と会食させていただく機会があった。
会食という名の飲み会は在籍中からもしょっちゅうあり、
最近は同窓会という名で、大規模のパーティなども頻繁にある。

パーティはともかく、ある程度の人数の飲み会も年甲斐もなく大騒ぎに
なることが当たり前で(自分も率先してはいるが)とてもゆっくりと話を
する雰囲気でもない。

その日も、ともすると思い出話と大騒ぎになりそうな中、仕事の相談をしながら、
どうしてもその先輩に聞いてみたかったことをきりだしてみた。


「どうして先輩はあんなに大型受注を挙げられたのか?」

大型受注をあげられながら私が入社そこそこの時期にスタッフに
異動された先輩にお話をうかがうタイミングを逸し、26年ぶりの率直な質問であった。


新卒で配属された事業部は企業むけに通信回線を提案する事業部だった。
オーナーの江副さんの肝いりで、新規事業として若手社員を中心に1000人以上の人員が投入され
一気にマーケットシェアを奪い取って行く最中だった。

私たちが入社した平成元年には営業も一息つき、営業の絶対数と見込み顧客の数も
逆転し営業が飽和し営業マン同士の社内バッティングが日常茶飯事だった。

今でいうところのレッドオーシャンだろうか。見込みのあるお客様は社員数と営業拠点数が電話回線に比例する
ので皆が狙い撃ちする。

だからおのずと営業対象先も限られてくる。

我々新人営業マンの仕事といえば早朝深夜ぼろぼろになった帝国年間をコピーすることからはじまる。
いかに旧人が営業していない手垢のついていなお客様にアタックできるか?日夜同期で議論を重ねたものだ。


そんな中、その先輩は地方の大手企業の大型受注をドンドンきめていた。

当然地方にもうでききの営業マンがおり、日夜アプローチをかけている。
また、東京のTOP営業マンたちも隙あらば地方に出張をかけねらってくる。
お客様にたどり着く前に社内の競争に勝たなければという状況だったのだ。

なぜ彼女だけあんなにも決められたのか?

26年ぶりに教えてもらった種明かしは実に明快なものだった。

1・東京には大企業、そして本社も多いが競合(社内外も含めて)も多い。
2・お客様は断るのが仕事になっている
(売れない営業はその中で何回もアプローチすることに満足)
3・そこで地方の大手企業をターゲティング(ここまではやる人もいる)
4・地方の大手企業本社にはその人しかわからない社内電話回線のヌシの人がいる
5・そのヌシの人が防波堤になり営業マンをストップする(自分の仕事を邪魔させないため)

つまり、そのヌシの人を(気持ちよくさせたまま)突破しなければ受注はあり得ない。

そこで先輩がとられた手は
6・東京をはじめ大都市の支社長あてに営業する
7・支社長は自分自身の仕事ではなく決定権がないものの、選りすぐりのエリートである。
8・彼らはやがて本社に帰り経営層になるべく鍛えれれており問題意識が高い。
  つまり、総務にアタックしたら後回しにされる通信コストの削減も彼らにとっては
 (=利益貢献)となり、売り上げを何倍にもあげるほどのインパクトを持つのだ
9・そのため支社長は喜んで通信量の把握に協力することになる

その後、先輩は
支社長の協力を取り付け、通信量を把握し、全社の通信料金のシミュレーションを行い
その結果莫大なコスト削減(=利益貢献)を明確にしたうえで、ヌシの人に会いに行く。

会社の通信設備に一生を捧げ、守り抜いた彼の会社への利益貢献という名の手柄にしたうえで
決済を上げさせる。

なんとすごい戦略だろうか。


1・敵がいないところにアポを取り
2・後々、会社を支える人々(理解力もあり、スピードも速い)を味方につけ
3・エリートである彼らの協力のもとに、現場の超キーマンの手柄にして敵を作らずGOALまで一直線

彼女がこの仕事をまとめたのは新入社員であり当時の上司も7年目(30歳前後)だというのだ。

私ははたとはしを落とし、その驚きに言葉がなかった。
そしてそのあと彼女が言った言葉がさらに衝撃的だった。

「この話ってガルコン(社内論文)に書いてて、それで賞もらったんだよ。有名な話。読まなかった
私のガルコン」

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我、見れども見れず。当然読んでいたはずだが、当時の自分がいかに何も考えていなかったかと同時に
形だけをまねしようとしていたことが分かった。
物事の本質を今一度見つめてそのれに対し真摯に対峙していこうと26年ぶりに思いました。

M先輩、気づきをいただきありがとうございます。